たまごがさきかにわとりがさきか

気になったことを書き留めておきたいだけのブログ。浅い考察も、言葉にすればきっと意味があるはず。

個人主義と和を尊ぶ日本の文化は両立しうるか?

久々の更新。

これは個人的にずーっともやもやしているテーマです。

 

日本は、全体主義的であるというのは明らかです。みんながこうしてるんだから空気を読めとか、個人を無視するところはあまり好きではありません。

私は以前ヨーロッパに留学していたのですが、個人主義的な文化の中で生きていくのは、個人が尊重されてそれはとっても居心地がよかった。でも、人は人、自分は自分で終わってしまう群れない感じが、なんとなく寂しいなあと思う自分もいました。

 

憲法改正の議論において、「行き過ぎた個人主義が人間関係を貧しくした。我々は家族の絆をもっと大切にすべきだ」みたいなことを主張する人がいますが、果たして個人主義はそんなに悪者なんでしょうか?そして、日本において、個人主義を実践することは不可能なんでしょうか?

個人主義的でありながらも、日本人らしい和を尊ぶ文化をどうにか組み合わせられないものかなあ、というのが今回のテーマです。

 

◆そもそも「個人主義」とはなにか

辞書によると、

個人主義:「国家・社会の権威に対して個人の意義と価値を重視し、その権利と自由を尊重する立場や理論。」「利己主義に同じ。」

それでは、利己主義の定義はというと

利己主義:「社会や他人のことを考えず、自分の利益や快楽だけを追求する考え方。また、他人の迷惑を考えずわがまま勝手に振る舞うやり方。」

とされます。

しかし、個人主義と利己主義は本当に同じなのでしょうか?

 

私は、この二つは似て非なるものだと思います。

夏目漱石は『私の個人主義』(個人的にとっても好きな本)のなかで、「自分がそれだけの個性を尊重しうるように、社会から許されるならば、他人に対してもその個性を認めて彼らの傾向を尊重するのが理の当然」「我々は自己の幸福のために、己の個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならない」と述べている。

まさに、そういうことですよ。

個人主義とは、本来自分の主義主張だけではなく、他者の主義主張も同じように尊重するという「平等」の概念がその根底にあるはずです。我々は平等である、という考え方がなければそもそも「個人が尊重される」なんてことはありえません。つまり、誰もが個人として尊重されるのが個人主義であって、自分のことだけを個人と考えるのが利己主義なので、この二つは同義ではありません。

 

◆いまの日本人は「利己主義的で無関心」

今の日本人は、自分が良ければそれでいい、という感じがします。その原因は何でしょう?私は「無知」だと思います。今の日本人は、あまりにも知らなすぎるし考えてなさすぎる。もし、本当に社会の将来を考えているならば、社会的弱者を自己責任だと切り捨てて弱肉強食社会にすること、また軍国主義に回帰する選択をしないのではないだろうか?もっと合理的に考えるならば、人口が減り続けるなかでどうやって生産性を上げていくかを考える方向に進むのではないか、と思う。今の日本は、個人主義ではなくて利己主義で無関心が蔓延しているだけ。民主主義と同様に、個人主義もアメリカから与えられた概念だから、きっと意味を理解していないんだろう。

 

◆和を尊ぶ日本の文化は悪なのか?

日本は、同調圧力がすごい。忖度、が流行語になるくらいだから、空気を読むのは悪しき習慣だという流れがある。しかし、私は「察する」という文化が嫌いではないし、家族的なアットホームなつながりも好きだ。この調和や連帯感は、必ずしも悪ではないし、日本人的なプラスな能力だと思う。特に「思いやり」は、すごく日本的でいいではないか。

問題なのは、行き過ぎた全体主義が個人を埋没させてしまうことで、「嫌だ」という声を無視する、あるべきルートを外れた人を批判する、そういったところだと思う。

 

◆個人主義は相互依存を否定しない

先述したように、個人主義は他者を尊重することも意味するため、相互依存や連帯を否定するものではありません。単に一人で生きていくことを意味するものではありません。だから私は、「思いやり」という日本的な優しさは、個人主義と両立しうるのではないかと思う。

なぜ個人主義と全体主義のどちらか極端に振れてしまうのでしょう?ここは本来対立する概念ではなくて、たぶんもっと歩み寄れるはずです。そうでなければ、日本人は中途半端なアメリカかぶれ状態を脱することができずアイデンティティを喪失するか、全体主義に戻るかのどちらかになってしまう気がしてなりません。

 

◆しかし、前提となるのは「自立した個人」

しかし、日本人らしい個人主義を確立するためには、その前提として「自立した個人」であることが必要不可欠です。人は人、自分は自分。どの生き方が上とか下ではなくて、自分のポリシーに従って生きればよい。そういった考え方は特に若い世代に増えてきていると思いますが、今は「みんな違ってみんないいね」で終わっています。そうではなくて、みんな違うから大変だ!といういまの社会をどうやってプラスに進めていくか?をみんなで考えていく「対話」が必要ですが、それができるのは「自立した個人」です。「大人」でなければ、建設的な話はできないと思います。

 

◆「大人」ってなんだろう?

私の考える「大人」とは、自分の言動に責任を持てる人です。自由には責任が伴う。子供は、自分で責任を取れないから自由が制限されています。大人になるということは、すごく大変だし、メンタル強くないとかなり辛い。自由を手に入れるとは、そういうことです。でも、日本人が大人になれないのは、ある意味仕方がない部分もあると思っていて、なぜなら日本人はずーーっと社会人になるまで子ども扱いをされるからです。いきなり大人になれと言われても、さすがに無理があります。だって、そんな生き方、誰も教えてくれないんだから。私は、もっと小さなころから「一人の個人」として接することが必要だと思います。幼い頃から「個人」として扱われなければ、いつまで経っても日本人の「甘え」はなくならないと思います。

 

ちなみに、このテーマをゼミで発表したとき、日本人はいつまで経っても全体主義を捨てられないんじゃないか?というコメントをもらいました。

 

これは、「どんな生き方が幸せか?」という問題にぶつかると思っています。個人が尊重される寛容な社会は、西洋的な思想であって、本当はその社会が正しいものではないかもしれない。すべて自分で選択する生き方か、それとも誰かに決められたことに従って生きるのか。どちらが幸せなのだろうか?それは人それぞれだから、どちらが正解ではなくて、本当は、どっちの生き方もできるのが多様な社会なのかもしれない。でもね、いまはなんだか、結局しあわせの形をめぐって争っているだけのように見えてしまうなあと。お前の生き方はつまらないなあ!なんて、言い合う権利はないと思っていて、そうやって二項対立から抜け出せないあたりが、日本人の弱いところですよね。相手の考えを叩き潰して自分の考えが勝つ、みたいなことをやっていても、物事は何も変わらないですよ。

 

 

そんなことを最近考えています。私はやっぱり、個人として尊重される教育現場になるしか、道は残されていないんじゃないかなあと思います。部活がブラック企業のはじまり、と言われるくらいですから。自分の頭で考える癖は、小さいときにやっていかないと難しいんじゃないかなあと思います。