君たちはどう生きるか?という普遍的な問い
久しぶりの投稿です。
今回もゼミのネタ。うちのゼミの教授のお言葉です。
4年生ですので、ゼミ合宿をもってゼミは卒業。先生とももうお別れだったわけですが。社会へと羽ばたいていく4年生に、先生はこんな言葉を送ってくれました。
「人生は、与えられた宿題をこなしていればあっという間に終わります。」
これは先生のゼミの教授から送られた言葉だそう。
まあ額面通りなわけはないですよね。
その裏に込められた意味を考えれば、
「じゃあ与えられた宿題以外のことを、自らやっていくにはどうしたらいいのかな?君たちは、宿題をこなすだけでいいのかい?」
というメッセージですよね。と、私は受け取っている。
生徒に対しててきとうですよ、とか言ってるくせにものすごく生徒思いな先生だから、
私たちに対する期待とか、こう生きて欲しいとか、そういうことを強く思ってくれているっていうのは前々からわかってました。
先生から与えられた、「君たちはどう生きるか?」という問い。
それは、私たちがゼミで1年間考えてきた問いでもある。
生きるとは、死ぬとは、愛とは、平等とは?
このタイトルの本がバカ売れしているけれど、あれが書かれたのはものすごく昔だし、私が好きな夏目漱石の「私の個人主義」でも、どう生きるべきかということが論じられている。「どう生きるべきか?」というのは、人間がずっと悩み続けてきた問いで、今も昔も、きっとその明確な答えは出ていない。善い生き方とは何か?というのは、何かわからない。日本と西洋ではその価値観も異なる。
ただ、この問題を提起してきた先人たちは、「誰かのために、生きる」という答えを導き出していると思う。
自分がどうなりたいとか、そういった自己中心的な生き方ではなくて、社会をどうするとか、誰かのことを助けるとか、与えられた命の使い方は、そうあるべきなんじゃないか、それこそが生きるものの使命、という感じがしている。
こうなる理由は、身分、格差が原因だと思う。
キリスト教の場合は、神から与えられた命をどう使うかというミッションが人間には課されているので(曖昧)、フィランソロピーとかの概念がマッチする。というかキリスト教圏から生まれた考え方だし。
学問をおさめられるのは上流階級の人たちだけで、哲学できるのは身分が上の人たち。大多数の一般庶民たちは、日々の生活で精一杯だった訳で。どう生きるか?なんて正直考えてる余裕なんてない。だから、学問している人たちは特別で、じゃあその特権をどう使うべきか、社会に還元する義務/使命がある。先人たちが、死ぬほどこの国のことを考えまくったのは、そういうことだと思うんです。上には上の義務がある、ということです。(イギリス人が考えてる、貴族は貴族らしくある義務がある、みたいな)
じゃあ今の日本は?今、なぜこうした問いが流行るんだろうか?
不安定な社会だからだろうか?
この先がどうなるかわからない。転換点にある。
明治維新とか戦争とか、そうした時代と同じくらい真剣にこれからのことを考えなければいけない時代に突入しているんだと思う。
AIが発達したら、私たちは昔の特権階級になるのか、それとも使われる立場になるのか。共存するのか。。。答えはない。でも答えがないからこそ、ブレない自分の軸がないと、きっと淘汰されていく。
「君たちはどう生きるか?」というのは、不安定な時代におけるコンパスみたいなもの。私は、こう生きるんだ、というのが大切な軸になって、その使命感が自分をもっと強くする。
何が言いたいのかわからなくなってきましたが。
私は、日本がもっと明るくて幸福度の高い社会になるために自分の時間を使いたい、と思う。本当は、こんな国さっさと出ていって北欧とかに住みたい。でも、私は、日本のことが好きだし、好きだからこそもっと良くなってほしい。中途半端にアメリカの思想を取り入れてわけわかんなくなってる今、日本らしいこれからのあり方、を模索していきたい。きっと、日本に合った、素敵な社会のあり方があるはず。それは昔に戻るのではなく、先進的でなければならない。未来を、より良いものにしたい。
そのために、何かアクションを起こさないといけなくて、幸いにも声をあげてどんどん動ける環境にいるんだから、はやくその1歩を踏み出したいな、と思っています。
ゼミは私にとってはものすごく大切な時間で、自分の主義、思想をアップデートできる貴重な機会でした。しかしこれを一人でやるのはだいぶしんどいから、社会人になったらどうしようかしら、、、というのが直近の悩みです。哲学サロンでも社内で開こうかな。ファシリが下手だからグダリそう。
「君たちはどう生きるか」読みましたけど、いい言葉満載ですねあれ。あんだけ売れたんだから、あーすごいなあ、で終わらず、自分自身のことを考えるきっかけになっていたらいいなあと思いました。
おわり。先生ありがとう!