たまごがさきかにわとりがさきか

気になったことを書き留めておきたいだけのブログ。浅い考察も、言葉にすればきっと意味があるはず。

毒親な母との共依存関係から抜け出して、冬。自尊心をえぐる親子関係に向き合った26歳OL

あけましておめでとうございます。

何年ぶりだろうか、久々にこのブログで記事を書きます。

noteで実名で投稿してたんですけど、なんか匿名でうだうだ書きたくなったのでこちらに。そして新年早々暗い内容になります笑

 

「こども庁」の名前の件で、昨年末から「家族」とか「実家」とかについてのツイートが増えたように感じています。私もそのうちの一人で、マジであの名前の件に関しては本当に無理of無理案件です、はい。

 

で、私も「家族」に縛られていた人間で、ずっとずっと「家族のことを悪くなんて言えない」って思ってきました。そして他人の不幸と比べて「いや私はここまでひどくないから家族のことを悪く言う資格なんてない、だって世間から見たら恵まれてる方だから」って思っていました。

 

いや。なんでだよ。人には人の地獄がある。

 

最近そう思うようになって、いわゆる虐待やマルトリを経験しているわけではないんだけど、じんわり真綿で首絞めてくるような母のもとで育った自分のことを、やっと大人になって、辛かったよねってぎゅっと抱きしめてあげられるようになりました。

 

◆過保護な毒親と精神的な虐待の線引きは?

うちの母はいわゆる「毒親」に入るっちゃ入るんだけど、世間で流れている話ってそれ毒親とかじゃなくて精神的虐待では??レベルのエピソードが多すぎると思うんですよ。そこまでいかないけど、周りから見たらいい親に見えるんだけど、子供からしたらマジで辛い、みたいな家庭って結構あると思っていて。

 

うちの場合は、めちゃくちゃ過保護なんですよ。過保護って言っていいのかな?

「あなたはママがいないと何もできない」ってずっと言われて育ってきた、みたいな。これ一種の呪いの言葉っていうか、刷り込みというか。

 

私は家で本当に親の手伝いとかしてこなくて、それはたま〜に料理の手伝いとかしようかなって思っても「時間がかかるだけだから邪魔」って言われて手伝いさせてくれなくて、そのくせに手伝わないと「本当に何もしない役に立たない」と言われる。それを延々と繰り返すので、私はマジで自分は一人では生きていけない無能な人間だってずっと思っていました。本気で。反抗期はなかったの?と聞かれることが多いんですけど、一人っ子だから親の機嫌を損ねるとか、本当になんのメリットもないんですよ。だって、何か怒られそうなことをすると「ご飯作ってあげない」「もう知らない」って言われて、私は自分は無力な人間だって思ってたから捨てられるのなんて絶対に嫌だって思って、親の顔色伺って、逆らわなくなる。私の意思とかより、母の願いが優先で、母の言っていることが絶対に正しくて、私の判断は間違っている。だから私は母に意見なんてできなくて、母が喜ぶであろうことを自分の意見としてきた。

 

でも私は学校では成績優秀ないい子ちゃんだったので、家以外だと大人にすんごい褒められるわけです。本当に偉いな〜すごいな〜って、先生にも、友達にも言われる。でも子供の頃の自分にとっては親だけが絶対的な正義で、親に褒められなければ意味がなくて、親に評価されなければ無能と一緒で、だから自我みたいなものが不安定だったと思う。いい子でなんでもできる優秀な私と、何もできない使えない私。何が本当の自分なのか、わからなかった。

 

なんていうか、母は周りから見たら過保護だけど私のことを1番に考えてくれてるいいお母さんに見えるんですよね。当時の自分も、そう思ってた。いいお母さんだって。

 

でもさあ、反抗期がないって、普通に考えて不健全なんですよね発達において。親に反抗できるって、反抗しても絶対に自分を受け入れてくれる親という存在がいるからなんですよ。反抗するメリットない、とか考えてる時点でなんていう親子関係なんだっていう。親が思うような行動をしなかったら、私は母に見捨てられるってずっと思ってた。だから自分の好きなことをやるとか、夢を追いかけるとかそんなこと無理で、母が望むことが自分の夢、母の望みこそが自分の行動指針だった。

 

本当は、子供のやりたいことを応援してくれるのが、危険からは守りつつも見守ってくれるのがいい親なんだって最近になって知った。

 

◆母親との共依存関係から抜け出せなかったあの頃

 

で、さらに厄介だったのが、私は母と長らく共依存関係だったということ。

これも実家を出て気づいたんですけど、私は母がいないと生きていけないって思わされてたし、それと同時に「母には私しかいない」って思ってたんですよ、本気で!母は友達が少ない専業主婦で、何をするにも私が一緒。というか、私しかいないの。母が友達と出かけることなんてなくて、母がどこかに行きたい時は私が一緒に行っていた。私が友達と出かけるのを寂しそうにしてきたし、なんなら付いていくとかもよく言われた。「誰とどこに出かけるの?」って必ず聞かれた。私の交友関係は全部把握されてた。

 

こわ。激重彼氏じゃん。

 

そう、激重メンヘラ彼氏ムーブなんだよ。

 

だから私も母に対して強くは言えなくて、大学生になった頃から少しずつ自己主張し始めたんだけど、母に寂しい顔されたり超不機嫌な態度を取られるとそれ以上は強く言えなくて結局折れてた。意味わからん。機嫌で相手をコントロールするような人よくないよね。

 

大学時代に海外留学したことをきっかけに、あれ、私って意外と一人でも生きていけるんじゃない!?全然無力じゃなくない!?バイトしてるからお金もあるし、え、私すご!と自信を手にいいれて、母に長年かけられてら呪いの言葉から逃げて、母に一切相談せずに就活をしたんですよ。で、初めて自分で決断をしたの。内定もらった会社に決めて、帰ってきて「私ここに就職するから!」とだけ言った。ちなみにベンチャーなので誰も知らないような会社なので、母にとってはありえない選択だったと思う。だっていい大学行って留学だってしたのに、大企業に入るチャンスはあったはずなのに、全然知らない小さい会社に行くんだもん。

 

しばらく気まずい空気が流れてたけど、就職してから会社の愚痴とか一切私が言わないからなのかなんか納得してくれた。でも大企業に勤めてる友人の話とかをすると羨ましそうな顔をされるので、未だになんか思われてるのかなって気はする。知らんけど!

 

就職してもしばらくは実家暮らしで、私は結構ワーカホリックなので帰りが遅かったんです。で、頼んでないけど母は夜ご飯を作って、私が帰ってくるまで待ってくれてるの。それは今考えるとありがたいことなんだけど、疲れて帰ってくると「帰ってくるの遅い」と文句を言われて、疲れ果ててるので無言で食べてると「美味しいの?なんか言ったら?」ってすごい不機嫌になって、「もう眠いんだけど」って文句言いながら私が食べ終わるまで待ってるの。いや、もう、寝てもらって構わないです待ってなくていいからって言ってたけど、全然聞いてくれなかった。

 

これって愛なのかもしれないけど、私にとってはとてつもなくストレスで、早く実家を出たくて家探しをした。で、よさそげな物件を見つけたので相談したら、まあ案の定反対されて、このころの私はまだ共依存から抜け出せてなかったから、そうだよね…って折れた。

 

そこから親戚の家に居候という折衷案でどうにか実家を出て、翌年には家を探して、もう契約をした後に母に報告をした。ここまでしないと絶対に反対されるってわかってたから、強行突破した。会社で母との関係についてよく相談をしていたのものあって、マジで今はなれないとやばいと気づいたので、この時にはもう共依存を抜け出せてたと思う。やっと別れたよ激重彼氏と。未練はない。

 

◆自尊心をえぐってくる株主

自分の家は理想的な家族だって思いたくって、家族との関係を見て見ぬ振りをずっとしてきて。

 

でも実家を出て客観的に家族を観れるようになってから、いやうちって変な空気あるよな?と思うようになった。年末年始は実家に帰るけど、すっごい気を使うし、なんなら私は母とあんまり目を合わせて話せない。あからさまに嫌ったら絶対に絶対にやばいのはわかってるので、波風立てないように過ごすこの感じ。あれ、実家って安心できる場所じゃないんだっけ?普通に疲れるので、早く自分の家に帰りたいと思ってる自分がいる。

 

「本当に気が使えない」「本当に役に立たない」「可愛くない。(体が)でっかいな」など、なんでかわかんないけど自尊心をえぐってくるネガティブな言葉ばかり言われる。普段の生活では絶対に言われないことしか言われないの。私にそんなこと言ってくるの、母だけなんですけど??

 

でね、この年末の話なんですけど、久々に海外の友達とテレビ電話をしたら英語が全然話せなくなっててやばかった〜って話をしたら、「もう〜今までかけたお金が全部無駄じゃん」って言われたの。怖い。そんなこと言われるの…?これ、別れたら「今までお前に使った金返せ」っていう彼氏じゃん!

 

なんていうか、本当に母にとって私は投資先って感じだったのかなって思ったんですよ。母は株主で、私はお金出してもらってるから株主のいうことを聞かないわけにはいかないじゃないですか。なんか、そういう関係だったなって。

 

◆一緒にいたい人と、家族になろう

今はもう金銭的な援助を受けてるわけではないから、母の顔色を伺う必要なんてないわけです。創業期を支えてくれてありがとうございました、でも超嫌だったのでもう関わらないかな!って感じです。

 

確かに私にたくさんお金をかけてくれてたくさんの経験をさせてくれたことには感謝しています。そこは本当にありがとう。そのおかげで素敵な友達ができて、恵まれた環境で生きることができたと思う。

 

ただ、だからといって自尊心を傷つけていい理由にはならないっていうか。そこはやっぱり、嫌なものは嫌だよね。許す必要ってあるのかな?私は別に許さなくなっていいと思うんだよ。家族だから和解しなきゃいけないって思わない。母に「ずっと苦しかった」って伝えるという選択肢もあるのかもしれないけど、そう言われて変われる人じゃないと思うし、余計に自分が辛くなるだけだと思うから、私は多分今後も母に本音は言わずに、なんとなく距離を取りながら生きて行くと思う。

 

悲しいかな。寂しいかな。

 

うーん、でも、自分がしんどくなる一緒にいて苦しくなる人と無理に関わらなくていいのが大人になるってことだと思うんですよ。

 

母と共依存になってたことで、人と深く関わることがすごく怖くって、恋愛とか本当に無理すぎて結婚とか家族とか一ミリも想像できなくて、一人で生きてきたんです。でも、この年末年始に母との関係をこうやって整理したことで、ああ、自分が一緒にいたいと思える人と選び取って行く人生にしよう!と思えた。一人はやっぱり寂しいから、一緒にいて楽しい人と家族になろう。そうポジティブに今は思えています。

 

血の繋がりが全てではないし、家族だから何をしてもいいわけではないよ。家族だからって許す必要なんてないし、嫌だったら関わらない選択をしたっていい。そう言ってくれる人が少しずつ増えているけど、本当にそう思う。

 

虐待じゃないけど、でも親に傷つけられてきた人っていっぱいいると思う。苦しくて、でも周りには理解されないから余計に苦しい。その人が辛いと思ったら辛いことだから、人の不幸と比べる必要なんてない。

 

何が言いたいのかわからなくなってきましたが、大人になるって楽しいよね!

 

社会人になって実家を出てから、私はやっと私の人生をスタートできたと思う。今、とても楽しいよ。自分で選択をするのは大変だし、自由には責任が伴うけど、自由を制限されていた頃よりも、はるかに自分らしく生きられていると思う。

 

今同じように親子関係に苦しんでいる人に、少しでも届いたらいいなと思います。

 

今年も楽しく生きましょう〜〜!

 

「女の子らしい」ってなに?

こんにちは。

今日は、私が最近考えていることを、ちょこっとメモしておこうと思います。

 

 

いま私は、ライターのお仕事をしています。

(その割に文章が下手なのはご愛嬌)

子供向けアパレル商品の紹介記事とか書くんですけど、その中でね、ずっともやもやすることがあって。自分でもその理由がよく分からなかったんですけど、

 

パステルカラーでキラキラ可愛らしい商品を「女の子らしい」と表現することへの違和感からきていると、最近気づきました。

 

いやいやいや、そう表現しないように他の語彙をどうにか増やせよ、で終わりなんですけどね。

でも、「女の子らしい」「男の子らしい」って、よく使っちゃう表現で。「女の子におすすめ」っていう記事でピンク色のものばっかりなのだって、違和感ありまくりじゃないですか。

スポーティなものが好きな子だっているじゃん?青とかオレンジとかが好きな子だっているじゃん?って。

私自身、幼い頃からピンク色とかフリルとか、いわゆる女の子らしいデザインが好きではなくて、でも子供向けの商品って、なぜかどぎついピンク色ばっかりで、母は私が好きなデザインを探すのに苦労したようです。 

 

だから、記事を書くときには、かっこいいデザインとか、ナチュラル系とか、できるだけ幅をもたせるように意識しています。

でもね、意外とそういう商品って見つからなくて。その理由って、女の子にはこれでしょ!っていうデザインがみんなの中にやはりイメージがあって、それを着せたいよねってみんな思っているからなのかなって。需要あるもの作りますよねそりゃ。

 

ただ、私はこのままでいいのかなあと思うわけです。

小さいときから、女の子はこういうものを着るのよって言われ続けてね、女の子は可愛らしいのがいい、と思ってしまうんじゃないかと、思うわけです。

別に何を着たって、いいじゃないですか今の世の中。小さいときに自分の好きなものが認められないことって、子供は結構辛いんじゃないかなあと思うわけです。スカートはきたくなければ、はかなくていいじゃないですか。

 

本当に、本当にちょっとしたことです。でも、こういうちょっとしたことで、子供のジェンダーステレオタイプって形成されていくと思うんです。

メディアが持つ力、そして周りの大人の言葉が持つ力って本当に大きいから、「女の子らしい」という表現には、気をつけたいと強く思っています。

 

私は「女の子らしくしなさい」と、親や先生に言われたことがなかったから、かなり自由だったなあと思います。社会で生きていくために、多少の女性らしさは必要だな、、、と痛感していますが、今の会社も、女性らしさを求められる環境ではないからかなり自由です。

 

ジェンダーフリーが絶対的に幸せなのかはわかりません。

でも、男らしく、女らしく、という枠に縛られることを減らしたいなあと思います。

 

まずは、「女の子らしい」という言葉を使うのをやめてみよう。

 

 

君たちはどう生きるか?という普遍的な問い

久しぶりの投稿です。

 

今回もゼミのネタ。うちのゼミの教授のお言葉です。

 

4年生ですので、ゼミ合宿をもってゼミは卒業。先生とももうお別れだったわけですが。社会へと羽ばたいていく4年生に、先生はこんな言葉を送ってくれました。

 

「人生は、与えられた宿題をこなしていればあっという間に終わります。」

 

これは先生のゼミの教授から送られた言葉だそう。

まあ額面通りなわけはないですよね。

その裏に込められた意味を考えれば、

「じゃあ与えられた宿題以外のことを、自らやっていくにはどうしたらいいのかな?君たちは、宿題をこなすだけでいいのかい?」

というメッセージですよね。と、私は受け取っている。

 

生徒に対しててきとうですよ、とか言ってるくせにものすごく生徒思いな先生だから、

私たちに対する期待とか、こう生きて欲しいとか、そういうことを強く思ってくれているっていうのは前々からわかってました。

 

先生から与えられた、「君たちはどう生きるか?」という問い。

それは、私たちがゼミで1年間考えてきた問いでもある。

生きるとは、死ぬとは、愛とは、平等とは?

このタイトルの本がバカ売れしているけれど、あれが書かれたのはものすごく昔だし、私が好きな夏目漱石の「私の個人主義」でも、どう生きるべきかということが論じられている。「どう生きるべきか?」というのは、人間がずっと悩み続けてきた問いで、今も昔も、きっとその明確な答えは出ていない。善い生き方とは何か?というのは、何かわからない。日本と西洋ではその価値観も異なる。

ただ、この問題を提起してきた先人たちは、「誰かのために、生きる」という答えを導き出していると思う。

自分がどうなりたいとか、そういった自己中心的な生き方ではなくて、社会をどうするとか、誰かのことを助けるとか、与えられた命の使い方は、そうあるべきなんじゃないか、それこそが生きるものの使命、という感じがしている。

 

こうなる理由は、身分、格差が原因だと思う。

キリスト教の場合は、神から与えられた命をどう使うかというミッションが人間には課されているので(曖昧)、フィランソロピーとかの概念がマッチする。というかキリスト教圏から生まれた考え方だし。

学問をおさめられるのは上流階級の人たちだけで、哲学できるのは身分が上の人たち。大多数の一般庶民たちは、日々の生活で精一杯だった訳で。どう生きるか?なんて正直考えてる余裕なんてない。だから、学問している人たちは特別で、じゃあその特権をどう使うべきか、社会に還元する義務/使命がある。先人たちが、死ぬほどこの国のことを考えまくったのは、そういうことだと思うんです。上には上の義務がある、ということです。(イギリス人が考えてる、貴族は貴族らしくある義務がある、みたいな)

 

じゃあ今の日本は?今、なぜこうした問いが流行るんだろうか?

不安定な社会だからだろうか?

この先がどうなるかわからない。転換点にある。

明治維新とか戦争とか、そうした時代と同じくらい真剣にこれからのことを考えなければいけない時代に突入しているんだと思う。

AIが発達したら、私たちは昔の特権階級になるのか、それとも使われる立場になるのか。共存するのか。。。答えはない。でも答えがないからこそ、ブレない自分の軸がないと、きっと淘汰されていく。

「君たちはどう生きるか?」というのは、不安定な時代におけるコンパスみたいなもの。私は、こう生きるんだ、というのが大切な軸になって、その使命感が自分をもっと強くする。

 

何が言いたいのかわからなくなってきましたが。

私は、日本がもっと明るくて幸福度の高い社会になるために自分の時間を使いたい、と思う。本当は、こんな国さっさと出ていって北欧とかに住みたい。でも、私は、日本のことが好きだし、好きだからこそもっと良くなってほしい。中途半端にアメリカの思想を取り入れてわけわかんなくなってる今、日本らしいこれからのあり方、を模索していきたい。きっと、日本に合った、素敵な社会のあり方があるはず。それは昔に戻るのではなく、先進的でなければならない。未来を、より良いものにしたい。

 

そのために、何かアクションを起こさないといけなくて、幸いにも声をあげてどんどん動ける環境にいるんだから、はやくその1歩を踏み出したいな、と思っています。

 

ゼミは私にとってはものすごく大切な時間で、自分の主義、思想をアップデートできる貴重な機会でした。しかしこれを一人でやるのはだいぶしんどいから、社会人になったらどうしようかしら、、、というのが直近の悩みです。哲学サロンでも社内で開こうかな。ファシリが下手だからグダリそう。

 

 

「君たちはどう生きるか」読みましたけど、いい言葉満載ですねあれ。あんだけ売れたんだから、あーすごいなあ、で終わらず、自分自身のことを考えるきっかけになっていたらいいなあと思いました。

 

おわり。先生ありがとう!

 

 

 

個人主義と和を尊ぶ日本の文化は両立しうるか?

久々の更新。

これは個人的にずーっともやもやしているテーマです。

 

日本は、全体主義的であるというのは明らかです。みんながこうしてるんだから空気を読めとか、個人を無視するところはあまり好きではありません。

私は以前ヨーロッパに留学していたのですが、個人主義的な文化の中で生きていくのは、個人が尊重されてそれはとっても居心地がよかった。でも、人は人、自分は自分で終わってしまう群れない感じが、なんとなく寂しいなあと思う自分もいました。

 

憲法改正の議論において、「行き過ぎた個人主義が人間関係を貧しくした。我々は家族の絆をもっと大切にすべきだ」みたいなことを主張する人がいますが、果たして個人主義はそんなに悪者なんでしょうか?そして、日本において、個人主義を実践することは不可能なんでしょうか?

個人主義的でありながらも、日本人らしい和を尊ぶ文化をどうにか組み合わせられないものかなあ、というのが今回のテーマです。

 

◆そもそも「個人主義」とはなにか

辞書によると、

個人主義:「国家・社会の権威に対して個人の意義と価値を重視し、その権利と自由を尊重する立場や理論。」「利己主義に同じ。」

それでは、利己主義の定義はというと

利己主義:「社会や他人のことを考えず、自分の利益や快楽だけを追求する考え方。また、他人の迷惑を考えずわがまま勝手に振る舞うやり方。」

とされます。

しかし、個人主義と利己主義は本当に同じなのでしょうか?

 

私は、この二つは似て非なるものだと思います。

夏目漱石は『私の個人主義』(個人的にとっても好きな本)のなかで、「自分がそれだけの個性を尊重しうるように、社会から許されるならば、他人に対してもその個性を認めて彼らの傾向を尊重するのが理の当然」「我々は自己の幸福のために、己の個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならない」と述べている。

まさに、そういうことですよ。

個人主義とは、本来自分の主義主張だけではなく、他者の主義主張も同じように尊重するという「平等」の概念がその根底にあるはずです。我々は平等である、という考え方がなければそもそも「個人が尊重される」なんてことはありえません。つまり、誰もが個人として尊重されるのが個人主義であって、自分のことだけを個人と考えるのが利己主義なので、この二つは同義ではありません。

 

◆いまの日本人は「利己主義的で無関心」

今の日本人は、自分が良ければそれでいい、という感じがします。その原因は何でしょう?私は「無知」だと思います。今の日本人は、あまりにも知らなすぎるし考えてなさすぎる。もし、本当に社会の将来を考えているならば、社会的弱者を自己責任だと切り捨てて弱肉強食社会にすること、また軍国主義に回帰する選択をしないのではないだろうか?もっと合理的に考えるならば、人口が減り続けるなかでどうやって生産性を上げていくかを考える方向に進むのではないか、と思う。今の日本は、個人主義ではなくて利己主義で無関心が蔓延しているだけ。民主主義と同様に、個人主義もアメリカから与えられた概念だから、きっと意味を理解していないんだろう。

 

◆和を尊ぶ日本の文化は悪なのか?

日本は、同調圧力がすごい。忖度、が流行語になるくらいだから、空気を読むのは悪しき習慣だという流れがある。しかし、私は「察する」という文化が嫌いではないし、家族的なアットホームなつながりも好きだ。この調和や連帯感は、必ずしも悪ではないし、日本人的なプラスな能力だと思う。特に「思いやり」は、すごく日本的でいいではないか。

問題なのは、行き過ぎた全体主義が個人を埋没させてしまうことで、「嫌だ」という声を無視する、あるべきルートを外れた人を批判する、そういったところだと思う。

 

◆個人主義は相互依存を否定しない

先述したように、個人主義は他者を尊重することも意味するため、相互依存や連帯を否定するものではありません。単に一人で生きていくことを意味するものではありません。だから私は、「思いやり」という日本的な優しさは、個人主義と両立しうるのではないかと思う。

なぜ個人主義と全体主義のどちらか極端に振れてしまうのでしょう?ここは本来対立する概念ではなくて、たぶんもっと歩み寄れるはずです。そうでなければ、日本人は中途半端なアメリカかぶれ状態を脱することができずアイデンティティを喪失するか、全体主義に戻るかのどちらかになってしまう気がしてなりません。

 

◆しかし、前提となるのは「自立した個人」

しかし、日本人らしい個人主義を確立するためには、その前提として「自立した個人」であることが必要不可欠です。人は人、自分は自分。どの生き方が上とか下ではなくて、自分のポリシーに従って生きればよい。そういった考え方は特に若い世代に増えてきていると思いますが、今は「みんな違ってみんないいね」で終わっています。そうではなくて、みんな違うから大変だ!といういまの社会をどうやってプラスに進めていくか?をみんなで考えていく「対話」が必要ですが、それができるのは「自立した個人」です。「大人」でなければ、建設的な話はできないと思います。

 

◆「大人」ってなんだろう?

私の考える「大人」とは、自分の言動に責任を持てる人です。自由には責任が伴う。子供は、自分で責任を取れないから自由が制限されています。大人になるということは、すごく大変だし、メンタル強くないとかなり辛い。自由を手に入れるとは、そういうことです。でも、日本人が大人になれないのは、ある意味仕方がない部分もあると思っていて、なぜなら日本人はずーーっと社会人になるまで子ども扱いをされるからです。いきなり大人になれと言われても、さすがに無理があります。だって、そんな生き方、誰も教えてくれないんだから。私は、もっと小さなころから「一人の個人」として接することが必要だと思います。幼い頃から「個人」として扱われなければ、いつまで経っても日本人の「甘え」はなくならないと思います。

 

ちなみに、このテーマをゼミで発表したとき、日本人はいつまで経っても全体主義を捨てられないんじゃないか?というコメントをもらいました。

 

これは、「どんな生き方が幸せか?」という問題にぶつかると思っています。個人が尊重される寛容な社会は、西洋的な思想であって、本当はその社会が正しいものではないかもしれない。すべて自分で選択する生き方か、それとも誰かに決められたことに従って生きるのか。どちらが幸せなのだろうか?それは人それぞれだから、どちらが正解ではなくて、本当は、どっちの生き方もできるのが多様な社会なのかもしれない。でもね、いまはなんだか、結局しあわせの形をめぐって争っているだけのように見えてしまうなあと。お前の生き方はつまらないなあ!なんて、言い合う権利はないと思っていて、そうやって二項対立から抜け出せないあたりが、日本人の弱いところですよね。相手の考えを叩き潰して自分の考えが勝つ、みたいなことをやっていても、物事は何も変わらないですよ。

 

 

そんなことを最近考えています。私はやっぱり、個人として尊重される教育現場になるしか、道は残されていないんじゃないかなあと思います。部活がブラック企業のはじまり、と言われるくらいですから。自分の頭で考える癖は、小さいときにやっていかないと難しいんじゃないかなあと思います。

束縛は愛のかたちか

束縛は愛のかたちか。

以前、ゼミで議論したトピックです。

 

こんなこと考えたこともなかったので、

調べたことを記録として残しておこうかと。

 

まず、言葉の定義として

「束縛」=動き・働きの自由に制限を加えること。

「嫉妬」=やきもち。他人が自分より恵まれていたり、すぐれていることに対してうらやみねたむこと。自分の愛する者の愛情が他に向くのを恨み憎むこと。

「独占欲」=あるものを自分だけのものにしたいという欲求。ひとりじめしたいという欲求。

「愛」=かわいがる。いとしく思う。いつくしむ。いたわる。そのものの価値を認め、強く引き付けられる気持ち。大事なものとして慕う心。

と、します。これらは辞書の定義です。

 

なぜ、人は束縛するのでしょう?

心理学的には、束縛する人の傾向として、幼少期に愛された経験がなく、自己評価がとても低いということがあげられるとのこと。

「幼児的一体化願望」を幼い時に満たすことが出来なかった人は、束縛する傾向にあるようです。幼い子は、いつもお母さんにくっついて離れないですよね。あれは、お母さんを愛しているからではなくて、離れることが不安だからだと言われています。幼い頃、幼児的一体化願望を満たすことができていれば、愛する相手と離れることをこわい、不安だと思うことは少なくなります。しかし相手から離れたくないという強い分離不安がある人は、相手を束縛してしまうようです。

束縛をしている人は、相手を強く愛しているからだ、と信じていますが、実際は相手にしがみついているだけです。つまりは、強い執着心の現れです。

 

でも、束縛するのは愛があるゆえ。愛がなければ、束縛も嫉妬もしない、という人もいますよね。

 

しかしそれは、本当の愛なのでしょうか?

ただの独占欲、支配欲ではないのでしょうか?

私の考えは、その愛は相手に向いた愛ではなく、「自己愛」である、です。

相手のことを第一に考えているのではなくて、自分が不安だから、束縛する。つまり相手よりも自分が先にきている。これは、自己愛なのではないでしょうか。愛は、本来相手を信頼することであり、相手を自由にすることだと思います。相手を信頼していたら、疑う必要なんてありません。本当に相手を愛していたら、相手が嫌がることをしません。

たとえば、毎晩電話しろ、と言われていたけれど、ある日電話をしなかったとします。そのときに、彼が「なにかあったの?大丈夫だった?」と相手を心配するのであれば、その束縛に愛があるのかもしれない。ものすごく、心配性なだけかもしれない。でも、もし「なんで電話しなかったんだ、男と会ってたのか」など約束を破ったことに対する怒りがある場合、それはやはり自己愛です。自分に対する裏切り、とみなしているのです。

 

ドライでしょうか?

でも、お互いに縛りあっている関係が、私には理解できません。

愛があったら、相手が自分がなにをしたら嫌か分かるものだと思います。浮気されるかもしれない?それならそれまでです。相手はあなたのことを愛していなかったのではないでしょうか。

自己評価が低いと、こうやって自分は愛されているから平気、と思えない。だから、相手を疑うようになり、どんどん関係が悪化していく。そんなサイクルがあるように思います。

 

ちなみに、京都府警の大学生調査によると、27.5%が、束縛は許されると回答しています。18.9%がスマホや電話をチェックすること、12%がスマホにGPSアプリを入れることを容認すると回答しています。

お、おそろしい。。。

束縛は許されると回答した大学生たちの多くは、ストーカー規制法のことをあまり知らないという調査結果もありました。行き過ぎた束縛も、ストーカー規制法違反になりますからね。

 

愛とは、相手を信じること。

だから、私は束縛が愛のかたちだとは思いません。

 

厳しい束縛が、だんだんと暴力になって、DVにつながる。

それが愛だと思って逃げられない、やめられない人が少しでも

減るといいですね。

言葉をぶつけられるようになりたい。ここさけ。

こんにちは。よーこです。

初の投稿は、映画「心が叫びたがってるんだ。」(以下ここさけ)の感想です。

公開初日に観て、だいぶ日が経ってるもののどうしても書きたかったので。

 

ここさけ、あんなに泣けるなんて予想していませんでした。

映画中盤から最後にかけて、あ~~~若いっていいなあああって、泣ける。

胸がきゅうっとむずむず、くすぐったい感じ。

自分の高校時代を思い出して、泣ける。

この映画は評価がだいぶ評価が分かれているみたいだけど、たぶんそれはその人が、過去に何か1つのことに全力で向き合ったことがあるかどうか、に関わっているように思う。正直、部活でも、文化祭でも、体育祭でも、恋愛でも、なんでもいいけど、そういった若さゆえのアツい経験みたいなものがないと、泣けないのではないだろうか。

 

なにがいいって、普通にいそうでいないキャラクターたちだけど、どこにでもある高校生活を描いてるような、現実とアニメらしさとがいい感じに混ざり合っているところ。

あの4人、あーーこういう人いる、ってなるけど、ずばりまさに彼らみたいな人はいない。そういう、インクルーシブなキャラクターだからこそ、共感できる人が多くなる。そういう仕掛けなんだろうなあ。特徴ありすぎるわけでも、なさすぎるわけでもない。実写化してありがちな、二次元すぎる。。。という違和感がまったくなかった。

 

ここさけにでてくる人物が、もうみんないい人すぎるところも、観ていて気持ちがいい。

しまっちょがいい先生すぎる。

あのクラスのみんなも、いいやつすぎる。

最初はミュージカルに反対するのに、みんなが協力的になっていくあの流れが、とても自然。誰かに強制されているわけでもない、主人公が、感動的な言葉やリーダーシップでクラスを引っ張っていくわけでもない。そこが、好き。

 

ストーリーの中で、登場人物の気持ちが変化していくきっかけは、みんな、ささいな一言。順ちゃんが坂上くんのことを好きになるのだって、坂上くんのささいな言葉たちが積もり積もってのこと。名言できゅーーーんってくるわけでもなくって、坂上くんが何気なく言う言葉が、好き。坂上くんは、とても優しい言葉のチョイスをする。相手を安心させてあげられる。一方で、仁藤さんは、はっきり強めのワードをチョイスしてくる。だから坂上くんは、仁藤さんのことが好きなんだろうなあ。そして仁藤さんは、はっきり言ってくれない坂上くんのことがよく分からなくて嫌になるけど、成瀬さんに向ける言葉ひとつひとつに、きゅーんってなってる。田崎くんは、不器用で言葉は少ないけれど、愛がある。傷つけるように強く言ってるわけではなくて、相手への愛がうまく表せないだけ。ド直球で、あつい。だから、頑張って自分の気持ちを言葉で伝えようとする成瀬さんのことが好き。成瀬さんは、とーーってもピュアで、正義で、でも時々抱える闇がみえる。成瀬さんは、もともとおしゃべりだから、1つ1つの言葉に重みがあるわけではないんだけど、思ったことをストレートに表現できるところが、彼女のピュアさを表している。ただ、成瀬さんが坂上くんのことを好きなのは、たぶん恋愛感情とは少し違って、尊敬とか憧れの感情に近いのではないだろうか。

 

細かいところは、書き出したらきりがないのだけど。

この映画のメインテーマ「言葉」。

若いときこそ、自分の本音や、思いを、きちんと言葉にすることって、大切だと思った。言った後悔と、言わなかった後悔、たぶんどちらも同じだけつらい。

言うことで相手を傷つけるくらいなら、自分が傷つくのなら、言わない方がいいのかもしれない。でも、言わなければ、相手には伝わらないし、何も思っていないことと同じになる。

本音は、きちんと言える癖をつけないと、たぶんどんどん言えなくなってしまう。

私自身がそうだから。

 

私は、小さい頃から、感情表現が苦手だった。

嬉しいとか楽しいとか、それを思いっきり表現できない。

本音も、恥ずかしくて隠してしまう。いつからだろう。「好き」と言えなくなったのは。私は、坂上くんにとても近い状態だった。

でも、人と人とが深い絆で結ばれるためには、自分の本音をぶつけるしかない。

でも、私はそれがこわいから、相手が信頼できるってわかるまで、本音が言えない。

そうやって今まで生きてきて、結果的にとてもいい友達をもっているけれど、

最近は、もっとはやく自分から心を開けるようになりたいと思う。

心を開いてくれた相手にだけ、なんていうのはただの甘えだ。

「好き」って堂々と言えるようになりたい。

傷つくことを恐れずに、もっと自分の思いをどんどん出していけばいいのに、って何度も言われた。映画の最後の最後のナレーション、「この世界は言葉と言葉がぶつかって、できている。(ニュアンス)」が1番心に刺さった。私たちは、そうやってぶつかって生きていくんだって。

 

成瀬さんも坂上くんも仁藤さんも田崎くんも、勇気をだして本音を言うことで、成長している。強くなっている。

私も、そんな風になりたい。

私も、心を解放したい。

私も、自分の感情をきちんと表現することで、相手の心を動かせるようになりたい。

つたない言葉だっていい。

誰かに自分の思いを100%ぶつけられるようになりたい。

 

そう、強く思った映画でした。