束縛は愛のかたちか
束縛は愛のかたちか。
以前、ゼミで議論したトピックです。
こんなこと考えたこともなかったので、
調べたことを記録として残しておこうかと。
まず、言葉の定義として
「束縛」=動き・働きの自由に制限を加えること。
「嫉妬」=やきもち。他人が自分より恵まれていたり、すぐれていることに対してうらやみねたむこと。自分の愛する者の愛情が他に向くのを恨み憎むこと。
「独占欲」=あるものを自分だけのものにしたいという欲求。ひとりじめしたいという欲求。
「愛」=かわいがる。いとしく思う。いつくしむ。いたわる。そのものの価値を認め、強く引き付けられる気持ち。大事なものとして慕う心。
と、します。これらは辞書の定義です。
なぜ、人は束縛するのでしょう?
心理学的には、束縛する人の傾向として、幼少期に愛された経験がなく、自己評価がとても低いということがあげられるとのこと。
「幼児的一体化願望」を幼い時に満たすことが出来なかった人は、束縛する傾向にあるようです。幼い子は、いつもお母さんにくっついて離れないですよね。あれは、お母さんを愛しているからではなくて、離れることが不安だからだと言われています。幼い頃、幼児的一体化願望を満たすことができていれば、愛する相手と離れることをこわい、不安だと思うことは少なくなります。しかし相手から離れたくないという強い分離不安がある人は、相手を束縛してしまうようです。
束縛をしている人は、相手を強く愛しているからだ、と信じていますが、実際は相手にしがみついているだけです。つまりは、強い執着心の現れです。
でも、束縛するのは愛があるゆえ。愛がなければ、束縛も嫉妬もしない、という人もいますよね。
しかしそれは、本当の愛なのでしょうか?
ただの独占欲、支配欲ではないのでしょうか?
私の考えは、その愛は相手に向いた愛ではなく、「自己愛」である、です。
相手のことを第一に考えているのではなくて、自分が不安だから、束縛する。つまり相手よりも自分が先にきている。これは、自己愛なのではないでしょうか。愛は、本来相手を信頼することであり、相手を自由にすることだと思います。相手を信頼していたら、疑う必要なんてありません。本当に相手を愛していたら、相手が嫌がることをしません。
たとえば、毎晩電話しろ、と言われていたけれど、ある日電話をしなかったとします。そのときに、彼が「なにかあったの?大丈夫だった?」と相手を心配するのであれば、その束縛に愛があるのかもしれない。ものすごく、心配性なだけかもしれない。でも、もし「なんで電話しなかったんだ、男と会ってたのか」など約束を破ったことに対する怒りがある場合、それはやはり自己愛です。自分に対する裏切り、とみなしているのです。
ドライでしょうか?
でも、お互いに縛りあっている関係が、私には理解できません。
愛があったら、相手が自分がなにをしたら嫌か分かるものだと思います。浮気されるかもしれない?それならそれまでです。相手はあなたのことを愛していなかったのではないでしょうか。
自己評価が低いと、こうやって自分は愛されているから平気、と思えない。だから、相手を疑うようになり、どんどん関係が悪化していく。そんなサイクルがあるように思います。
ちなみに、京都府警の大学生調査によると、27.5%が、束縛は許されると回答しています。18.9%がスマホや電話をチェックすること、12%がスマホにGPSアプリを入れることを容認すると回答しています。
お、おそろしい。。。
束縛は許されると回答した大学生たちの多くは、ストーカー規制法のことをあまり知らないという調査結果もありました。行き過ぎた束縛も、ストーカー規制法違反になりますからね。
愛とは、相手を信じること。
だから、私は束縛が愛のかたちだとは思いません。
厳しい束縛が、だんだんと暴力になって、DVにつながる。
それが愛だと思って逃げられない、やめられない人が少しでも
減るといいですね。